Interview vol.1 長谷川啓/治療家・楽器作家・木こり
自分の体を治したい!と治療家の道へ。
―――長谷川さんは何足もの草鞋(わらじ)で活動されていますが、十代の頃に治療家を仕事にしようと思ったきっかけは?
小中高と水泳、サッカー、体操などの部活はやっていたけれど、とにかくいつもだるくて不調だったんですよ。小学校高学年の時に健康診断でひっかかって、「赤血球が足りません」と。いくら食べても身になっていかないし、薬を飲めば少しは楽になるけれど、止めたらまたもと通り。
こんなこといつまで繰り返すのか…このままではいけない、どうしたらいい?と考えるようになって。高校の体操部にOBが来て、メンテナンスをしてくれた時に、鍼灸・マッサージ師の仕事を知ったんです。
カイロプラクティックや整体などいろいろな治療がある中で、鍼灸・あん摩マッサージ指圧師として国家資格を取得すれば、どんな施術も可能になる。「そんな世界があるんだ!」と、15歳の時にそれを仕事にしようと決めました。
―――我が身をもって苦しんだからこそ、早くから志す職業が決められたんですね。
うん。体に関連する本も相当読んだね。それと同時にやっぱり鍛えたいと高校から体操を再開したのだけど、当時全国大会で総合優勝するようないわばトップレベルの高校だったので、自分はとてもそこはめざせないなと。そこで自分は自分で体操を“体を読み解くツール”と考え、体のしくみを知って整体を学ぼうと大学まで続けました。
ただ、体操ってある程度設備的環境も必要だし、単独で完成度を求めていくものだけれど、相手がいて妨害されながらその中でいかに自由を得ていくかという武術もやってみようかと。子供の頃からカンフー映画も大好きだったしね(笑)。
―――世代的に全盛期でしたもんね(笑)。では武術をやっていく中で*カポエイラ(ブラジルの伝統武術)へと繋がっていったんですか?
いや、それはたまたま。鍼灸の専門学校時代に新聞で広告を見つけて(笑)。カポエイラの動きや音楽、ブラジルの楽器などを見て、「あ、これでいいんだ。これならできる、これなら作れる」って思ったんだよね。それが2000年の頃。
*カポエイラ(Capoeira)格闘技、アクロバット、ダンスのような動きを伝統的なブラジルの楽器が奏でる音に合わせて行うブラジル独特の芸術の形式。黒人奴隷によって作られたとされるが、権力に抵抗する手段と見なされ、禁止された時代もあった。
社会の縮図、ブラジルの伝統文化カポエイラ。
―――カポエイラのどんなところに惹かれましたか?
まず、違法とされ厳しく取り締まられながらも、警察に隠れて楽しみ、逆に途絶えることなく奴隷や黒人以外の中流階級や警察内まで広まっていったというところが、カポエイラの“ブラジリダーヂ=ブラジル人らしさ”であり面白さでもあるよね。
いろいろな意味でカポエイラは、「バランス」がとても重要。彼らの歌にも「バランサ、バランサ」って言葉が出てくるんだけど、「海の波の上にいたらいい 俺たちの先祖もその揺れの中にいたよ…」といった意味合いの歌も残されています。
体操でいうバランスは、「揺らがないこと」だけど、カポエイラではその揺らぎから生まれる波の周期がリズムやグルーヴを生み出し、相手とのコンタクトにつながっていく感じ。
―――ダンスで表現する「円環」や「カリグラフィ」的な動きとも通ずるところがあるかもしれません。
カポエイラも、とにかく回る(笑)。ある意味コンタクト・インプロヴィゼーションそのものとも言えるのかも。
相手の回転に同期して入り込んでいくんだけど、呼吸が合うほど自由になって、常に合わせていくことができる。それは向き合っている相手とのセッションでもあるけれど、その場の中で起きている出来事においては、その場を仕切っているのは音楽であり、それを奏でる人。だから演奏されている音楽の世界観にバシーッ!と入っていけたら、あとは勝手に身体が動いていく。
最終的にすっころばしてやっつけたいのか、勝敗でなくハラハラもしたけど面白かったー!と感じられればいいのか、ゴールの設定さえはっきりさせておけば、自然に成り立っていくのがカポエイラかな。
―――そこには身体的感覚だけでなく、互いの呼吸や動き、音に共鳴し応えていくことで、精神的なつながりや調和が生まれていくイメージがあります。
カポイエラの原型として伝わっているのが「ホーダ・ジ・カポイエラ」。「ホーダ(Roda)=輪」で、人々が集まり輪になってカポエイラをすることと、楽器を持つ奏者を先頭に人で輪を作りカポエイラを行う輪という意味がある。
「ホーダ」というのは、人生の縮図。喜び、驚き、教えあい、戦い、対立も含め、ホーダの中ではいろいろなことが起きる。社会の縮図でもあるわけ。
ホーダの中で起きていることは、ホーダの外でも起きているし、またその逆もある。その中でお互いを傷つけ合うのではなく、それを「演じる」ことで、そこから身を守り共生する術を学ぶ、そういう場ということ。
だから、「ホーダ・ジ・カポエイラ」は、小さな社会で大きな社会で生きていくためのトレーニングをするという機能も持っているわけだよね。また、カポエイラは「対話」でもある。全ての関係性は対話によって育まれるとすれば、相手とどんな関係性を築いていきたいのか、カポエイラ自体その表現のひとつであり、会話の練習であり、遊び。倒されてもまた起きればいいから、何度も転んでみた方がいい。転んでも転んでもちゃんと無事だったら、本当に大丈夫ということだから。とにかく「対話をやめない」ことが大切なんだよね。
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