Interview vol.1 長谷川啓/治療家・楽器作家・木こり


意識空間の社会に、「循環」を取り戻す。


薬に頼らない形で身体と向き合った結果今があるわけで、いろいろな経験、仕事をされる中で共通することはありますか?

 共通項があるとしたら、それは「野生性」かな。たとえば山の獣たち、彼らは誰の世話にもなっていない。その環境に応じて生き抜いている。解体すると体の中に銃弾が入っていたり、骨折痕があったり、足が1本なかったりするんだけど、それでも生きてきたわけで。豚コレラやウイルスなどでバタバタ死んでいっても、それでも生きているやつはいるし、死に絶えてはいない。原発事故によって帰還困難区域となった福島で、野生化して暮らす動物たちもそうだよね。そうした生命の本質をいかに感じて暮らし、生き抜いていけるかなあと。

 対して、街は人間の管理が行き届いた環境、「意識空間」。もちろん土もある、草も生えるし木も伸びる、それでも人間の意識がそれをしっかり押さえ込んでいるわけで、そうした意識空間の世界で多くは暮らしている。

 それ以前の60年以上前の日本人の営みは、主に里山にあって、山も森も資源の循環があったんだよね。木を切り出し、川で流して運んでいた頃は、川上から中間、川下へと運ぶ間に水の中でゆっくりと乾燥させ、「材」として十分使える状態にして、建材などの「財」となっていた。そこにも循環があった。そうした自然のサイクルの中でやっていたことを無視し続けた結果、無意識の循環社会が崩れ、意識が先行した空間が広がっていったのが今の日本の社会。

日本の山の植林施策〜森林の伐採においても、そうした循環のあり方が問われていますね。

 なぜ山の木を間伐しなくてはならないかというと、それは自然のためではなくて、人間のためなんですよ。山は放っておいて鬱蒼と茂っても、自然の循環の中で勝手に抜けたり、崩れたり、蔦が絡まって倒されたり、そしてそこにまた新しく芽吹いたりと、勝手に代謝していくもの。そこに「土砂崩れなどの災害から人間の生活を守る」という意識が入ってくるから、やれ伐採しろということになるわけです。けれども、その木を材として財を生み出すよう適切に活用できていない。

 そうした中で、山と人間が少しでも関わっていくにはどうするのがいいんだろう?どうしたら価値のあるものを生み出せるんだろう?ちゃんと循環させられるんだろう?といつも考えています。「価値は創りだすもの」だから、仕事として成立する値段で売れる価値を作れれば、そこに循環が生まれるでしょう。そうなれば、日本の木ももっと活かせるだろうなと思うんです。太鼓作りもその循環のひとつとして繋がっている。

 整体で言うなら、痛い、何かおかしい、その使い方は違うよと体が告げている時、そこに寄り添ってあげることで「ああ楽になれた」とほっとすることができるでしょう。でも、現代は人間の意識の暴走が環境においても心身においても起きていて、自然のサイクルとの不調和といった「何か違うんじゃない?」という違和感があることはたしか。

 どの仕事も、そうした本来の「野生性」にどこまで近づき、循環を生み出せるかという試みでもあるかな。自分に関して言えば、省力化がもたらす「脱身体」とは真逆の、圧倒的にリアルな環境下でのサバイバルが日常です(笑)。


●生命の源でもある山、森、木と向き合い、格闘する重労働の日々。スポーツや武術、カポエイラの経験知・体感知、そして東洋医学の智をもって、自ら心身のコンディショニングを探求する。自然の素材で楽器をこしらえ、土踏みしめ心まで躍らせるリズムで、自然(じねん)を循環させる。「生き抜くことのリアル」を体現する“源知人”のまなざしは、ロジカルでありつつしなやかで、強かな光を放っていました。

(聞き手 浅井信好/取材・文 岩田舞海)

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