Interview vol.3 小岩 秀太郎/(公社)全日本郷土芸能協会常務理事・郷土芸能「鹿踊(ししおどり)」伝承者


郷土芸能を糸口に、次代へと伝え継ぐ。


 日本の各地に、それぞれ特有の風土の中で生まれ育まれ、伝え継がれてきた郷土芸能(民俗芸能)がある。地を耕し、五穀豊穣や平安を願い、歌や踊りで祈ることが民間信仰へとなり、祭りをはじめ地域の文化としてオリジナリティのある発展を遂げてきた。

 しかし戦後の経済成長の過程で、いつしか「郷土芸能=観光」といった形骸化や若手不足・高齢化のイメージが先立ち、 “アップデートされない文化”として認識されるようになってしまった。ところが、2011年東日本大震災を機に、被災地を中心に郷土芸能・祭りが再び息を吹き返し、国内外から注目されている。

 自らも岩手に伝わる『鹿踊』の踊り手・伝承者として、郷土芸能と各界アーティストとの橋渡しにも尽力する小岩秀太郎さんに、郷土芸能の未来について伺った。


小岩 秀太郎/(公社)全日本郷土芸能協会常務理事 縦糸横糸合同会社代表 郷土芸能「鹿踊(ししおどり)」伝承者

Profile

1977年生まれ。岩手県出身。
郷土芸能「鹿踊(ししおどり)」伝承者。
小学時代に地元に伝わる郷土芸能「行山流舞川鹿子躍(ぎょうざんりゅうまいかわししおどり)」を習う。
関東の大学で外国語文化を学び、台湾での留学を経て、帰国後(公社)全日本郷土芸能協会(東京都)に入職。芸能の魅力発信や東日本大震災復興支援、コーディネートに携わる。
東日本大震災を契機に、出身者・首都圏在住者が芸能でつながる「東京鹿踊」プロジェクト、ならびに東北仙台にて「縦糸横糸合同会社」を立ち上げ、地域に伝わる“縦糸”の文化を選り出し、地域の基層文化の魅力と価値を発掘・編集して、他分野・新分野や次代へとつなぎ、受け渡すための企画提案を国内外で行っている。東北と東京の二拠点で活動中。

(公社)全日本郷土芸能協会:
http://www.jfpaa.jp/
縦糸横糸合同会社:
https://tateito-yokoito.com”
facebook:
東京鹿踊/Tokyo Shishi-Odori

「鹿踊*」は、岩手の子供たちの通過儀礼。


――― 岩手県内だけでも地域ごとに多くの鹿踊が伝承されていますが、小岩さんが踊りを始めたのは何歳の頃からですか?

 10歳ぐらいからですね。僕が生まれ育った岩手県一関市の小学校では、地元に伝わる『行山流舞川鹿子躍(ぎょうざんりゅうまいかわししおどり 』を高学年の児童が習うんです。でももともと体を動かすことが嫌いだったし、地元のおじいさんに教わるのも違和感があって、嫌々やってましたね(笑)。
 とは言っても根が真面目なので、できないなりに一所懸命やっているうちに村の人たちから褒められるようになり、「もっとちゃんと頑張ろう!」と思い始めたかな。
 中学生になると踊りもよりアクティブになり、先輩たちのカッコいい姿に憧れて有志として続けていましたね。もうひとつの魅力は、土曜日に公民館に集まっての稽古の時間。お菓子を食べたりジュースを飲んだり、学校とは違った時間を過ごせることに優越感みたいなものを感じていたんでしょうね(笑)。50〜80代のいろいろな世代の人と話すことで、自分もその地域の一員だなと感じるようになっていきました

鹿踊*
 
地域の平安と悪霊の退散、盆供養の踊りとして、盂蘭盆や秋祭りを中心に踊られる(行山流舞川鹿子躍は岩手県指定無形民俗文化財)。踊り手自らが太鼓を下げて打ち鳴らし、歌い踊る「太鼓踊り系」と、太鼓を持たずに踊る「幕踊り系」に大別される。

 「太鼓踊り系」は、馬の黒い長毛をカシラのザイ(髪)とし、本物の鹿の角を立て、背にはササラと呼ばれる3メートルほどの竹竿に和紙をつけたものを一対背負った装束で、シカの動きを表現するように上体を大きく前後に揺らし、激しく跳びはねて踊る。

当時踊るための体づくりなどは何かしていましたか?

 私のところの鹿踊は跳躍が特徴のひとつなので、先輩たちが軽々と跳ぶ姿を見て、ジャンプ力を高めたくてバレー部に入ったりはしましたね。でも当時踊り手だったおじいさん達は「跳んでナンボだ!」と口々に言うんですが、跳んでいるところなど1度も見たことがなかった(笑)。

 そもそも郷土芸能の踊り手はプロではないし、仮に直前まで酒を飲んでいようが声がかかったら踊る!という感じで、特に体づくりのためのトレーニングなどはしません。踊りを体得すれば自然と動くのみ。むしろ、ふだんの畑仕事の動き…たとえば腰を屈める、重いものを持つ時に手だけで持ち上げず膝と腰をちゃんと使って上がるなど、毎日の農作業の動きが踊りの基礎となっている。だから90歳になっても踊れるわけです。


―――なるほど!激しい踊りもあるけれど、見せ場はそこだけではないってことですね。

 そうです。私も若い頃はジャンプが見せ場と思っていたけれど、自分が40歳過ぎてみてからはがむしゃらに動かなくても、ちゃんと無理なくカッコよく見える踊りがあるんだということがわかってきました。

 肉体的パフォーマンスが低下しても、間の取り方など年季のはいった人の動きは実に絶妙で、技術以上に“好い感じ”になっていくんですよね。そこに続ける魅力も感じています。

―――小岩さんが故郷を離れたきっかけは?

 当時は地方に残っていても望む仕事はなかったし、海外にも行ってみたいと18歳の時に進学を理由に田舎を出ました。一生帰らないぐらいの気持ちではいたのですが、その一方で気持ちは生まれ育ったところとつながっていたいという思いがあり、それの糸となったのが鹿踊でした。伝統芸能の継承者としての意識を持ち続けていれば、それを手繰ってまた戻って来られるんじゃないかという、ある意味セーフティネット的な考えもあったんですけどね(笑)。

―――海外留学ではどんな経験、気づきがありましたか?

 台湾に1年半ほど留学をしたのですが、海外で自分のことについて話したり伝える際に、ルーツ的な話もしますよね。その時に言葉だけでなく実際に踊って見せると、すぐに反応があり喜んでもらえるんです。特に鹿踊は装束など見た目も特異だったりするので、「ナンダコレハ!?」と話の糸口が開ける。

 山奥の小さな村の芸能であっても、ちゃんと世界に通用するんだ!こういう体験をしてもらえるよう、郷土芸能の人たちがもっと伝えるために外へと出てきてもいいんじゃないか、そう感じたことが継承者として意識するようになったきっかけでした。

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